さすがに8年以上前になるとよく覚えていないというのが正直なところ。
1980年 夏 アメリカ & カナダ

初めての海外旅行は高校2年の夏休みにアメリカヘ。いゃあ英語が通じないのなんの。学校ではそれなりに英語は出来ていたのに、入国審査で何言われているかさっぱりわかりません。テネシー州メンフィスに一ヶ月いる間になんとなく耳が慣れてきてかなり聞き取れるようになってきたのも不思議でした。所詮英語ってそんなものなのでしょうか?
1984年 夏 ハワイ 
2度目はハワイ。これも夏休み(しかもお盆)に行ったせいか異常な暑さ。でもそのときは「ハワイは年中こんな暑さに違いない」と思ったのですが、数年後の10月に行ったときにはそれほどでもなく、ハワイといえども暑くない時期もある、ということがよぉくわかりました。
宿泊はプリンス・クヒオ・ホテル(アウトリガー)。
1987年 夏 英国 
次は会社に入って2年目の夏、英国。初めてのヨーロッパ。でもユーラシア大陸にはまだ足を踏み込んでいないところがミソ。初ユーラシア大陸は帰りの飛行機のトランジットで降りたパリ(CDG)。
行きは今では考えられない香港経由の南回り。いったい何時間かかったんでしょうねぇ。おまけにロンドン・ガトウィック空港で国内線に乗り換えてマンチェスターへ。
イギリスというところはとにかく雨がよく降ります。とはいっても夕立や台風みたいなのではなく、降っては止み、しばらくするとまた降る、ってな感じ。これの繰り返し。観光には傘は必需品。でも現地の人は少々降ったくらいでは傘をさしていません。霧雨みたいなことが多いからかも...。
エジンバラ、ネス湖なんぞも行きました。
このあたりから旅中毒症患者になってしまったような気がします。
オックスフォード
1988年 夏 ドイツ&フランス

大学のときの友達3人と。これは短かったです。8日間だけれど正味6日間。
フランクフルトin、パリout。
フランクフルト→ザンクト・ゴアスハウゼン→ケルン→パリ、と結構ミーハーでした。特にパリは、ルーブル&オルセー美術館、ノートルダム寺院、シャンゼリゼ。お上りさんに徹したパリでした。
宿泊先は、
フランクフルトは「?」、
ザンクト・ゴアスハウゼンは古城(ラインフェルス城)ホテル、
ケルンはプルマン・ホテル、
パリはノボテル・バニョーレ。 |

ケルンの大聖堂 |
1989年 夏 英国&オーストリア

英国経由で、オーストリアはウィーンとザルツブルクへ。
ザルツブルク滞在は2週間前に死んだH.V.カラヤンの葬儀当日。
世界に冠たるザルツブルク音楽祭。なかなか華やかなものです。
宿泊先は、
ロンドンはモンテカム、
オーストリアは....忘れた。 |
ビッグベン@ロンドン  |
1990年 夏 オランダ&東&西ドイツ

前年にとうとう「ベルリンの壁」が崩壊。ちょっと行ってみるか、ってな感じでドイツへ。アムステルダム経由でドイツ(ハンブルク)へ入ったのが通貨統合の当日。ベルリンでも、東西ベルリンの通行はもう完全に自由。ビザは不要、パスポートのチェックは全く無し。”東西ベルリン”は”ベルリン”に。しかし、パスポートチェック無しは宿泊しない場合のみで、ライプツィヒでの宿泊のときはしっかりパスポートを一泊預かられました。「ポリスに持っていってスタンプを押してもらわなければならない」と社会主義的な事を言っていました。
宿泊先は、
アムステルダムはゴールデン・チューリップ・バルビゾン・スキポール(KLM)、
ハンブルクはホテル・ロイヤル、
ベルリンは個人宅の間貸し、
ライプツィヒはホテル・アストリア、
ニュルンベルクはシティ・ホテル、
ミュンヘンはホテルGEBHARDT。
ニュルンベルクの街並み(カイザーブルクから)
1990年 冬 英国 
大晦日に突如としてほとんど思い付きでイギリスへ飛びました。
ロンドンではコベントガーデンでくるみ割り人形も見たし、ウィンブルドンやグリニッジへも出かけなかなかアカデミック。
ロンドンの宿泊先はハノーバー・ホテル(B&B)。 |

ロンドンのUnderground(地下鉄)
いわゆる”TUBE” |
1991年 夏 英国&フランス&モナコ

英国は最初にちょっと寄っただけでフランスヘ。ロンドンからコートダジュールへ行くとその差にはただただ驚くばかり!!
どんより曇ったロンドから、青い海、青い空、”SUNSUN”と太陽の降り注ぐニースへ。
ニースはいいとこだぁ!! 人間腐ります。
あの「アヴィニョンの橋」も生で見たし、渡ってみました。もちろん「落ちて」いるので途中までですが。
宿泊先は、
ロンドンはホワイト・ハウス・ホテルとベガス・ホテル(B&B)、
ニースはホテル・カメリア、
アヴィニョンはホテル・インノバ、
リヨンはホテル・ナシオナール、
パリはラ・プラス・デ・ボージュ。
TGV(リヨン〜パリ間)の切符
1992年 夏 シベリア鉄道 & ウィーン

ソ連が崩壊しました。
横浜の船もかつてはナホトカ行きだったのがこの年からウラジオストック行きになり、とうとう
シベリア鉄道全線乗車 が可能になりました。ウラジオストック行きの最初の船だったので、こりゃ混んでるにちがいない、と思って結構ビビッてたら全然すいていて拍子抜け。
でもルーブルの安さには驚き! 1ルーブル=約1円! つまりモスクワの地下鉄が全線均一1円ということ。ウラジオストックで両替した5000円が10日ほどもちました。
モスクワの先もワルシャワ、ブルノ経由でウィーンへ行ったので、最終的には船と鉄道で日本からウィーンまで行ったということになります。若いうちじゃないと出来ません。
宿泊先は、
ウラジオストックはウラジオストック・ホテル、
イルクーツクはインツーリスト・ホテル、
モスクワはベルグラード2、
ウィーンはペンション・アクロン。
シベリア鉄道旅行記へ
分離派会館@ウィーンのチケット半券
1993年 秋 世界一周

KLMオランダ航空とノースウエストの世界一周チケットを買いました。西回りか東回りかで、逆戻りしない限り何回でも乗り降り可能な1年オープンのチケットで24万円也。24日間世界一周!
食べた機内食は全部で10回、泊まったホテルは8つ。国は7ヶ国。ほんとはもっとゆっくり周りたかったけれどこれくらいが限界。常夏シンガポールからいきなり雨ばっかりのロンドンへ行ったり、そろそろ秋から冬にうつりつつあるサンフランシスコから、これまた常夏のホノルルへ行ったり、気候も激変の旅でした。
宿泊先は、
シンガポールはニュー・サンディズ・プレイス、
ロンドンはブランデル・ハウス・ホテル、
ブルージュはホテル・ド・パウ、
ブラッセルはホテル・ウインザー、
アムステルダムはホテル・インパーラ、
ニューヨークはオルコット・ホテル、
サンフランシスコはオリンピック・ホテル、
ホノルルはワイキキ・プリンス・ホテル。 |

メトロポリタン・オペラの半券。レヴァイン指揮「魔笛」 |
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